【読書感想文】いと 美しきかな 平安京 いと あはれかな 平安京 四百年も続く都の史料【京都好き】

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京都好き

京都には学生時代に3年通い3年住み、会社で4年ほどまたお世話になりました。上賀茂神社(別雷神社)の葵のこととかで、こういうこともやらせてもらったことがあり京都は好きだし、鴨川を制してできた町なんだなと。。なんとなくの成り立ちも知っている方かと思います。

また、生まれ育ちが大阪堺なので、天皇陵、難波宮から大和川、法隆寺、飛鳥宮、平城京、平安京ってルートが何故か神秘を感じるし、面白いなって思っています。

宮・京って基本は天皇の住む家があった場所で、史料からきちんと場所が特定されているわけではないけど、面白い経路をとっています。今の大阪平野より狭く川のつけ位置も違うので、なんとも想像しにくいんですが。。

遷宮の歴史

この変遷をみると。。どうも、一族が一つじゃなかったのかな?なんて思ってしまいます。難波と飛鳥を行ったり来たりしていたり、淀川をさかのぼらずに、昔の大和川をさかのぼった流域でそこから奈良を通って、京都まで北上して、そこで400年も住処にしたというのは面白いなぁ~と。。 明日香から発祥だと、大和川下った一派と、北上していった一派がいたのかな?とか。。想像すると面白いです。航空写真の上に、少し気になる宮や京や陵をプロットしてみました。

興味のある方は、こちらのGoogleMapでも見てもらえると面白いかも?

ついでに、この宮内庁の系図のページクリックしながら見ると、平安前の人の古墳の位置が見れて面白いです。だいたいこの赤ハートと水色の近くに存在します。

ちなみに、付け替え前の大和川って、堺に流れてないんですよね。

大和川の歴史より

明日香から大和川を通って大阪城って書いてある場所が、難波宮の場所。そこから淀川上流方面に行かずに、どうして。。平野川から大和川を抜けて飛鳥に行って。。また難波に行って、飛鳥に行って、平城京に行って。。平安京に行ったのかな?って。。最初が飛鳥なのかな? だとすると何故。。天皇陵は堺なんだろう? って。。 日本書紀・古事記の頃の話なんですが、こういうこと考えるのが好きで、いつか調べようって思ったままです。

上の航空写真みてると。。氷河期は白い部分は海だったのかもで。。人間が生息できる場所はもっと山側で、飛鳥あたりから栄えて、大和川下ってみて、ええとこ見つけた難波宮と、奈良盆地の東の山沿いを北上して木津川を上り、長岡京あたりも見て、京都について、大津にも行ったけど、やっぱり京都がよかったみたいな。。ところなのかな?

豪族や天皇といえ、近くで食料が作れて、水があってはじめて繁栄できるでしょうから、古代から奈良時代ってそういう感じだったのではないかと。。もちろんその場所にも先住民がいたでしょうから、古事記や日本書紀のような話がでてくるんだと。。日本武尊のような話も、実家の近所から金剛山抜けて奈良方面に伝説がいっぱい残ってて面白いです。

大和川も今と違うので歴史を見る時に今の地形でみちゃうと間違っちゃいますが。。だいたい都市も、歴史に結構塗り替えられているんですよね。

大阪城のところも。。難波宮・・・石山本願寺・大阪城(豊臣秀吉) だし 京都も平安から室町のころの地割と、豊臣秀吉が行った天正の地割などで街の構造も大きく変わっているから京都は古い街とはいえ、平安の実際の街並みなどは、今を知っていると、よけいにわからないことも多いのかもしれないですねぇ~

平安京の四〇〇年:王朝社会の光と陰

と。。前置きが長かったですが、明日香のころから平城京を経て平安京までって、150年くらいは数年~数十年毎に遷都しているんですよね。といっても平城京まではそんなに大きな街ではなかったのかもしれないですけど、その当時の技術や文化の程度だと数十年が限界だったのかもですね。人が変わる毎に住む場所変えないといけなかったのかもしれないですね。それなのに。。

住居として400年も続くってどうだったんだろう? てか。。都としてなら、平安から江戸までだから。。1000年なんですよね。

どんな風に平安京できたのかな?

なんてこと。。どうなんだろう??と想像して、この「平安京の四〇〇年:王朝社会の光と陰」を読んでみました。

歴史好きだしなので、わりと歴史のこと知ってるつもりでいたんですが、読んでみて。。そっか。。王朝社会の光と陰 陰もいっぱいあるんだなぁ~ という感想。うすうすはそうだろうなって思っていたことも、史料をもとにひも解いておられるので、やっぱりそうなんだ!と。。思ったことを少し書いておきます。(この本も、僕の駄文の書き方と同じで、いろいろリンクというか史料をはってあるので、読みにくいけど。。後でまた思い出したくなった時に、いろいろ辿れて便利だとも思います。。とこのカッコ書きも、流れを切る要素ですね(笑))

なるほど・・当時の遷都って作りながらだったのね。

この本全体に、平安京と京都の成り立ちや変遷が時代を追って書かれています。

第一章 平安京誕生の裏側 (平安京以前の話)

第二章 ニュータウン平安京

第七章 平安京から京都へ

に、経緯がまとめて書かれています。

平城京から、遷都しようと、長岡京を作りかけて10年で。平安京にやっぱり作り直したと。。 この本では、天武系から天智系への系統のことや、造営していた藤原種継の暗殺や、祟りを恐れて平安京に作り直したというように書かれています。大きな流れとしては、やっぱり木津川を上って適地を探したのでしょうね。

長岡京を川から考えると、当時の治水技術だと一度、大きな雨がくると、止められなく氾濫する。。そうすると、もっと上流がいいなと探したのではないのかな?と個人的には思います。だから淀川のまだ上の鴨川の上流までいったのでしょうね。大津まで行ってみたりもしているけど、ちょうどよかったのが京都盆地の上の端のところだったと。

今では遷都するというとたぶん先に、役所ができてというように、都市開発からきっと始まるのでしょうけど、当時は、先に天皇が住んで、それから町が形成されていくという感じだったのですね。

どのように内裏が作られて。。区画ができてというところも書かれておりました。

また、最初は区画だけで、人が住んでいなかったり、鴨川の乱れでなかなか右京の方は人が住めなかったことなどこれらの章以外にもちりばめて書かれています。田畑もあったみたいで、荘園もあったと。。田に水を引くので鴨川の堤防が決壊するので、田を作らせないように見張る番人を作ったことや、それが役に立たなかったことなども書かれていて、面白い。

鴨川は山紫水明の水明であって、生きるために必要な水の供給源であると同時に、氾濫は町を苦しめたのでしょう。しかし、氾濫は、ある意味で、汚くなった町を流してくれたのかもしれないですね。

街区の広がりも、通い婚的なことで嫁方の家に天皇が住んだ経緯で広がっていったり、院政になって離宮作ったり、確かに院政するには、内裏ではできないので、その場所が広がっていって京都になってきたんだなと。。 あらためて400年かけて作りあげられ。。何度か作り直しはされていますが、その後、600年も京都に住み続けられる首都として機能したというのは、日本人えらいなと思います。

女帝のこと

第41代持統天皇 藤原京を拓く、第42代元明天皇 平城京を拓く。。 どちらも女帝だったことが改めて第1章の最初に書かれています。持統天皇は、皇子のおばあちゃんが、中継ぎで執務をしていたのに、皇子がなくなられたので、天皇になったとか。。 江戸時代にもいたんですね。知らなかったです。 男系と言われていますが、天皇は女性もいたと。明治に作られた歴史が常識になっちゃっていて、日本固有の文化では、どっちでもよかったんですね。

この本の中では、日記からいろいろな暮らしや文化を類推しています。日記も男のつける今でいう日報や、記録メモとしての日記。女性のつける感情の起伏や、日々の描写としての日記があって面白いですね。確かに歴史を知る上ではどちらも調べる必要がありますね。

もともと日本は、明治以前は、混浴だったとか。。もっと自然だったんですね。

夜に会議だったのね

国の「朝廷」といわれるように、政治は朝議で決められるものってイメージがあり、重要なことは密室や夜に決められる。。みたいな悪戯は、夜のイメージがありました。が。。

第3章 平安人の昼と夜

では、貴族は夜 庶民は昼 活動していたことが書かれていました。平安時代だと電気もないし、みんな朝や昼しか働かないと思っていたんですが、日記類に書かれている事件などから類推するに、夜に儀式や議論が行われていたらしいんですね。知らなかった。

確かに。。京都に かがり火 って いまだに多いかもしれません(笑) 摂関政治が夜議になった理由だったりするらしい。でも夜には鬼が出てくるといわれて、事件があったらしい。。鬼って盗賊などの人間だったんですね。貴族から見て、底辺の人間が鬼だったわけですね。

トイレのこと

鬼といえば、餓鬼草紙。。 これに出てくる鬼は、底辺の庶民。 鬼が糞を食べていたそうです。飢餓があって、糞を食べざる得なかったのでしょうけど、そもそもトイレの概念が、街中ではなかったそう。そういう画が残っている。 平安時代の平安京は、強烈な匂いだったんでしょうね。こういう画も、たぶん見ていたと思うのですが、てっきり想像上の話かと思っていました。

町中に、排泄物があるので、それらを避けるために、高下駄があったと。。 へ~~知らなかった。錦小路ももともとの名前は。。とかも載ってます。きれいな名前がつくところってもともとは違っているとかってことあるんですね。

貴族のトイレは、オマルのようなもので、収集して捨てていたそうです。そのオマルを運ぶ女性の役人が一番下の階級だったそうな。そういえば枕草子か何かで、おならの音をかき消してくれる侍女もいるとか読んだことありますが、排せつに関しては、平安時代はあまりロマンティックじゃなかったのですね。

災害・疫病・怨霊 と 祭りのこと

芥川の羅生門などでも、平安京のなんというか汚さが想像されるわけですが。。源氏物語なんかの貴族のイメージしか残ってないと、なかなか貴族って優雅でいいな。。 くらいにしか思ってないのですが、

第8章 平安京の災禍 にいろいろ書かれています。

災害としては、鴨川の氾濫。。 排泄物があちこちにある町を洗い流したのかとも思えるのですが、どうも排水がよくなく、結構あちこちに溜まっていたそうです。汚い上に不衛生(同じか?)なので、疫病も何度も襲ったみたいですね。 基本的に人口が増えると疫病も蔓延しやすくなるのは、世界どこでも同じ。 当時は疫病で人口が半減するとかもあったようですね。屍が町のいたるところにあったとか。。 想像を絶する感じですね。

現世の地獄と呼ばれるような状況だったのですね。 今の京都からは想像がつかないですね。

ちょっとした下痢を、廊下から庭に向かって出すとかも、平気なことだったようです。

今と違って医療も発達しているわけじゃないので、不幸があれば、祈るだけ、原因もわからないので、怨霊だと。。 元号変えたり、祈るための祭りをしたり。。 それで京都には祭りが多いんですね。 これも予想外でした。

天皇・貴族の暮らしと今の暮らし

貴族の暮らしって優雅でいいな。。女史は歌を詠んで、遊んでくらしていいな。。って思っていましたが、今の庶民の方がよっぽど衛生的で優雅な生活をしています。

環境派の人で、昔の暮らしに戻ろうという人がよくよくいますが、医学・土木技術などなどがすすんだことで、人間が多くなっても(人口が増えても)、地球環境に負荷をあまりかけず、人間も平均して長生きできるようになっているんだよなと、あらためて感じました。

現世の地獄 が、平安末期  貴族文明は、実はここで終わらざる得ない状況だったのですね。だから鎌倉・室町時代に変遷していくわけなんですね。

この本、すらすらっと読めるわけじゃないですが、いろんなことを考えさせてくれて、面白かったです。

関係するような本もかってみたりするかな?漫画でもいいかな??(笑)なんて思ったりしました。

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