田坂塾
ずいぶんと前に、田坂広志の、企画力という本を読んで、分厚い本なのに、2時間くらいで読み切ってしまい。なんて説明がうまいんだろう。僕もこんなふうに説明できたらいいな。。って思ったんですよね。
でも、何が書いてあったのかは、今となっては覚えていないけど。
モノを読ませる力って、共感力というか、「あぁ~そうだよね!」って思いながら読めるかどうかなんだろうな。なんて思った記憶があります。
それで少し前というか、だいぶ前から、田坂塾というMLに入っていて、
http://hiroshitasaka.jp/archives/tasakajuku/
いつもは、ふ~ん っていう程度に読んでいるんだけど、つい目に止まってしまった記事があったので、紹介します。
なぜ、「集団的無責任状況」が生じるのか?
『Forbes JAPAN』 2015年11月号の記事が元ネタなんですが
https://forbesjapan.com/articles/detail/10552
超要約すると
昔話
貧しい村の村人に愛されていた神父が引っ越すことになった。
貧しい村人全員が、貴重なワインを一杯ずつ持ち寄り、樽に詰めて、神父へプレゼントすることになった。
別れの日に、一人一杯づつ ワインを村人たちは、入れた
翌日、樽を見ると、なぜかワインでなく、水が詰まった樽であった。
貧しい村人の大半が、貴重な一杯のワインの代わりに、そっと一杯の水を樽に注いでいたのだ。そして、誰もが、「自分一人だけなら、正直にワインを注がなくとも大丈夫だろう」と考えていたのだ。
「小さな無責任」が集まると、「巨大な無責任」と呼ぶべき事態が生まれてしまう。
例えば、
2020年東京五輪大会の新国立競技場建設コストが、なぜ、あのような無責任な膨張をしてしまうのか
そこには、「組織」における「責任」というものの持つパラドックスが潜んでいる。
「全員の連帯責任だ」や「関係者の共同責任だ」という言葉が安易に語られる組織においては、「全員の責任なのだから、自分がやらなくとも、他の誰かが、その責任を実行するだろう」という密やかな他者依存の意識が生まれ、必ずと言ってよいほど、この集団的無責任状況が生まれてくる。
集団的無責任状況 組織における責任というもののもつパラドックス という点に・・
とても感じ入ってしまいました。
今感じることと、自分はどうか?
少し前に、こういうことを書きました。
【電磁波セキュリティ】EMP攻撃で「文明」は崩壊!?産経新聞の記事 スマート社会にするためには適正な強さが必要です【IEMI】
あまり今ほどには脅威がなかった頃ですね。でも、実態を知っているので、きちんとやりましょうよ!とこのHPに書きました。
が・・・専門家が専門家として、矜持を持って話すことが、組織としてはなかなかできない。
組織の方針は「国の方針が出てから」
専門家の委員会でも、「誰が対応するか?」もめてしまう。自分も言い出せない。もう自分は引退したんだ。と言い聞かせながら・・悶々としていました。
http://www.sankei.com/politics/news/170912/plt1709120009-n1.html
たまたま電話に出て少し話しをしただけの記事ですが、このような記事が出て、僕自身は、やっと踏ん切りがつきました。
「あの時やっときゃよかったなぁ~ って後悔しないために」
自分自身が、対応しよう。
と。。 あんまり大それたことではなく、少し休んでましたが、長いことやってきたことです。これのおかげで、ITU-T協会賞も昔頂いたんですよ。そんな奴が黙ってていいのか?自問自答しました。
できることって案外何もなく、多くの人に正しく理解してもらうこと。そして、国が言ったから、この国を守るとかじゃなく、自分の頭で考えて、何ができるのか?を専門家・関係者の人に自分で考えて自分で行動してもらいたい。
起こるのか?起こらないのか?確率では出せない。
でも、もし起こった時の対策方法はある。という状況で、行動できるか?
「国の方針が出てから」 って 「国がみんな死ね!」って言えば、死ぬんですか? って言いたい。もちろん、国に正しい判断をしてほしいと思います。じゃぁ、正しい判断材料を持っていくのが専門家の役目なんだと。
選挙もあるんですね。政権が変わったらやらない?とか?そういう類のものでもないかも知れないですね。最低限やっとかなきゃいけない所って、3.11以降で学んだことがあるでしょう。
昔、会社で技術者倫理というのを教えたこともあるんですよね。僕。
ふと:第二次世界大戦で学んだことって?
確かに戦前の日本は、追い込まれていました。まるで、今の北朝鮮のようです。
「お国が死ね」と言えば 死ぬ覚悟で戦う。お国のため。
これが、日本を戦争に追いやった考えかもしれません。誰かが考えたのか?集団的無責任でそうなったのかは?わかりませんが、国の考えというのは、やはり民衆の大多数の考えなのではないかと思います。
で、あれば、あの大戦で、我々が学んだことは
個々人が自分の頭で考え、自分が正しいと思う行動をする。
ということなのではないか?国任せにしたり、組織任せにしたり、他人任せにしたりしない。
それが、多様性のある中での全体の進め方なのかもしれないな。
多様性という言葉の概念をこの歳になって初めて少し理解できたような気がしました。
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